はじめまして、妊活から育児までトータルでサポートするカウンセリング カウンセラーの真山和子(まやま わこ)です。
これまで、不妊治療の専門クリニックで8年、産婦人科に6年、看護師として勤務したくさんの患者様のサポートをしてきました。
そして、私自身は幼少期からの環境で本音を言えない性格で、自分の本当の気持ちを押し込んで我慢してしまい、その結果、人生のたくさんの場面において壁にぶつかってきました。
夫の浮気、離婚、シングルマザーの子育て
再婚から新天地での生活、不妊治療、高齢出産
こういったお悩みをお抱えの方も多いのではないのでしょうか?
これらは私が全て経験してきたことです。
一人で抱え込んで頑張っているあなたに届いて欲しい、という思いでこのメッセージを書いています。辛い経験を乗り越え、今は穏やかな日々を送っています。カウンセリングを受けるかどうかを迷っている方もいらっしゃると思います。少しでも私のことを知っていただき、カウンセリングへの不安を解消できれば幸いです。そこで、私のプロフィールを掲載させていただきます。

わがままを言えない
幼少期

生まれつき体が弱く、病院にお世話になることが多かったためか、物心ついたころから看護師に憧れていました。
子供の頃、母は病気がちで、寝込んでいる事が多く、子供心に無理を言ってはいけない、わがままを言ってはいけないと、自分の気持ちを押し込むことが多かったです。
父のギャンブルが原因で両親はお金の事でよく揉めていたようです。父は真面目な性格でいつもは仕事で帰りも遅いのですが、休みになるとギャンブルに出かけていくような人でした。友達の家とは違って、あまり家族で出掛けたり旅行に行くような家ではありませんでした。母からは、よく父や祖母の愚痴を聞かされていました。母のことが大好きだった私は、病気で身体の弱い母を苦しめるなんてひどいと、父や祖母のことがあまり好きではありませんでした。
早く自立して、幸せな自分の家庭を築きたい

自分が成人した頃から、母はどうして私にあんなに愚痴を聞かせて、父や祖母のことを嫌いにさせたんだろうと疑問を抱くようになりました。母は、よく祖父(母の父)のことを懐かしそうに、嬉しそうに私に話してくれました。その姿にも反発心のようなものを抱きました。でも、自分のそんな葛藤は誰にも話せず、早く家を出たい気持ちになり、就職は実家から離れた場所を選びました。看護師になって、命の誕生にかかわる仕事がしたいと思い、初めての配属は、産婦人科病棟を希望しました。
就職してから知り合った男性と恋愛結婚しました。夫は体を使う仕事をしていたので、自分を律して日々ストイックにトレーニングに励む姿を尊敬していました。明るく、賑やかな仲の良い家庭に憧れ、結婚当初はすごく意気込んでいたように思います。主婦雑誌を何冊も買って家計管理や、料理、掃除を勉強し、頑張って良い奥さんになることを目指していました。今みたいにSNSもない時代で、お手本にするのは、雑誌の中のスーパー主婦と、同じように職場で共働きをしながら子育ても頑張っている、看護師の先輩達でした。
夜勤をしながらのフルタイム勤務と家事の両立で大変でしたが、きちんと良い奥さんでいることが家庭の平和を保つために大切なことだと思っていました。多少しんどくても、周りの先輩も頑張っているし、私もそうすべきだと思っていました。
夫の不貞が発覚。信じたい気持ちと絶望感・・・
そして離婚

結婚して半年くらい経った頃からです。夫に女性の影を感じるようになりました。明らかな痕跡があるのに、問いただすと、のらりくらりと言い訳をし、最後には私の思い込みがひどい、考えすぎだという結論に言いくるめられてしまうのです。
まさか..という信じたくない思いと、いや、おかしいでしょうという信じられない気持ちが交錯し、大きな不安に襲われました。夫の不貞を自分が認めてしまったら、自分が努力で積み上げてきた今までの人生や結婚生活が、台無しになるような気がして、自分に言い聞かせるように、夫のことを信じることにしました。
しかし、次第に夫のことが信用できなくなり、夫が出掛けるたびに心配になり、自分が夜勤の日は不安で仕方なくなりました。いつも疑いの目で夫を見ている自分がいました。あんなに楽しかった家事も楽しく無くなっていきました。次に決定的な証拠が出てきたときには、私は妊娠しており、臨月になっていました。妊娠すれば、変わるかもしれない。。そう思っていた考えは打ち砕かれました。そんな状況においても夫は否定の一点張りで、認めようとせず、私も争いごとはしたくたくないという思いから、それ以上自分の思いをぶつけるのはやめて、信じたふりをして、それ以上自分の本当の気持ちを話すことはありませんでした。
出産後も家を空けるのが不安で、里帰りはせず家で赤ちゃんのお世話をする事にしました。しかし結局、出産後も、同じようなことが繰り返され、心の中ではずっと疑い続けていたので、何度も問いただしましたが、自分の不貞を認めず話し合いにもならなかったので、彼との心を割った話し合いはあきらめて、白黒つけるために明らかな証拠を探し、離婚することとなりました。
離婚を決意するまでは、苦しくて、夢だった幸せな結婚生活を諦めたくない気持ちと、一人で子育てしていく不安に、何度も引き戻されそうになりました。でも、このまま自分の気持ちを押し殺して結婚生活を続けていては、きっと心が壊れてしまうと思いました。そして、自分の母のように、子供に愚痴を言い続ける母親になってしまうのは嫌だと感じました。
家を出て、実家に帰りました。息子を新しい保育園に連れていくために、桜並木を自転車で走った時のことが忘れられません。とても、爽快で、清々しい気持ちでした。新しい人生の始まりを感じました。
新たな人生と不妊治療

30歳になり、不妊治療の専門クリニックに転職しました。その当時は自分が不妊治療を受けることになるとは、思ってもみませんでした。シングルマザーになった私は、とにかく安定した生活基盤を整えたくて、仕事に打ち込みました。幸い両親の助けもあり、子育てと仕事の両立が出来ました。辛い離婚を経験しても、私は信頼できるパートナーや子供に囲まれたにぎやかな家庭を望む気持ちが強く、出会いを求めて婚活をしていました。そして、離婚から7年後、良いご縁もあり再婚することになりました。
前の夫とは違い、心が広く、自信があって大木のようなぶれない感じ。子供も大切にしてくれる、初めて会ったタイプの人でこの人といれば大丈夫みたいな安心感がありました。
再婚前から、お互い二人の間に子供が欲しいという思いがありました。子供が生まれたら大変なこともあるかもしれないけど、皆で力を合わせて乗り越えれば、家族としての絆が深まるし、成長できると思っていました。
不妊治療のクリニックに勤めていた私は、38歳という年齢の事もあり妊娠にはある程度時間がかかるのではないかと予想していました。早めに卵巣や子宮の状態を調べて、すぐに妊活を始められるよう準備していました。
そして再婚し、県外へ転居しました。同時に仕事も辞めて、専業主婦となりました。
最初は自然妊娠を試みましたが、妊娠には至らず、体外受精に踏み切ることになりました。緊張した初めての体外受精は陰性でした。でも、妊娠率が低下してくる年齢なので1回ではうまくいかないだろう・・と自分に言い聞かせていました。
でも、2回、3回体外受精をしても陰性でした。
1回で妊娠しなくても、3回も体外受精をすれば妊娠するんじゃないかという期待が自分にはあったんだと思いました。最初は、親身に慰めてくれていた夫も、「また次、頑張ろうよ!」と明るく励ましてきたり、「プロなんだから、身体のこともよくわかってるでしょう?」と諭すような態度に、どこか他人事に言われているような気がしてモヤモヤが止まりませんでした。
1周期1周期、心も身体もエネルギーを注ぎ治療をしても、不合格通知をもらうような気分で、自分でもどうしたらいいのかわからないのに、また頑張ろうという言葉が、もっと頑張らなければ!私の頑張りが足りない!という言葉に脳内変換され、一人で辛くなっていきました。結果が陰性の度に自己肯定感が下がり、夫との気持ちのギャップを感じていました。気持ちが辛く、体外受精が出来ずお休みしたり、人工授精に切り替えたりしながら、約1年後に4回目の体外受精で妊娠しました。
追い詰められた40代での不妊治療
40歳で出産しました。生まれてきてくれた赤ちゃんはとても可愛く、家族皆で喜び、一つ一つの成長に感動しました。しかし、20代の産後と比べると、体力がまったく違いました。夜間の授乳、抱っこ。朝起きると決まって頭痛。薬も飲めません。苦労してできた赤ちゃんなのだから、こんなことで弱音を吐いてはいけないと自分を責めていました。そして、心の中では歳の近い兄妹が欲しいと思っていました。
子供が2歳になったのをきっかけに、治療を再開しました。2年前と比べてかなり卵巣の数値が悪くなっており、愕然としました。もう良い受精卵ができないかもしれないと思いました。心ではうまくいかないのではという気持ちが大きく、43歳で不妊治療をしているということを、周囲には理解してもらえないと思い、夫以外には話していませんでした。不妊治療をしていることは、知り合いにも、同じ治療をしている人にも、話しにくいものですし、反対されたら嫌なので、親にさえ言えませんでした。知り合いの多い田舎では不妊治療で飲んでいる薬を申告して、治療していることを知られることさえ嫌で、病院や歯医者にもできるだけ行きたくなかったのです。小さな社会で、不妊治療していることが、誰かにどう思われるかということを極度に気にしていました。親しい人には治療していることを少し話したりもしましたが、治療が辛いとか、子育てとの両立がしんどいとかは言えませんでした。自分がやりたいと言ってしている治療だから、辛いなら辞めなよと言われるのが怖かったのです。
気がつけばいつも自分の前に壁が立ちはだかる
精神的な辛さ、子育てとの両立という体力的な辛さのストレスから、激しい胃痛に襲われて気を失い救急車で運ばれました。そのときに、「ああ、私もう限界だな」と感じました。
離婚という辛い経験を乗り越えて、幸せな再婚もできた。不妊治療はしたけど、赤ちゃんを授かった。幸せな状況を手に入れたはずなのに、気がついたらいつも壁にぶつかってしまうのはどうしてだろうと思いました。
それは、自分の本音に耳を貸さずに、他人からどう思われるか、一般的にはどうすべきか、どうすれば人から嫌われないか。そこに基準を置いて自分が行動しているからだと気づきました。
自分の本音を意識するように
それから、自分の中で頑張ることや我慢を手放し、自分のやりたいことをやってみようと思いました。趣味の時間を増やし、オンラインで趣味の仲間と交流したりするようになりました。そして鍼灸院に通い自律神経を整えたりしました。以前は体外受精のスケジュール中は、外出も控えていましたが、家族で遊園地に遊びに行ったり、旅行もしました。
相変わらず、判定は陰性でしたが、回を重ねるごとに、以前のようなひどい落ち込みではなく、現実を受け止めることが出来るようになって来ました。44歳の誕生日前の移植で、その時の私の気持ちは、
「出来ることは十分やってきた。これでダメだったら、治療は諦めて趣味を生かして講師業でもやってみようかな。」
と自分を認めることができ、小さな夢まで持てるようになりました。
そして最後と決めていた6回目の移植で妊娠しました。
私は結果的に44歳で妊娠、出産しましたが、私よりも長く苦しい治療を経ても、妊娠できない患者さんもおられます。そんな方々の治療してきた経験と、実際に治療したことで子供を望む方の、強い思いや、複雑な状況も身をもって体験しました。
今は、自身の経験を生かし、院内のカウンセリングをしています。
多くの人は、自分の気持ちを打ち明ける機会が少なく、話せる人も限られています。実際に私も自分の気持ちを相談することはありませんでした。
でも、今なら思います。もっと周りの人を信頼して、頼ったり、相談したりすればよかったと。自分の本音と向き合ってこなかった結果、まわりの人も心から信じることが出来なかったんだと思います。ただ、自分の状況というものはなかなか客観的に見られないものです。
治療を断念した人のケアしたい。
また、離婚、再婚の経験から、様々なパートナーシップの悩みにも向き合っていきたい
人にはなかなか話せない、デリケートな話も安心して話せる